■事実と真実
事実と真実は決して違う
作り事の事実闇に葬られた真実
真実が流される方が少ないはずだ
虚実の中に真実があるかもしれない
虚実から現実の中で発展させるものがある
現実の中の素材から虚実を語る事ができる
現実と虚実は循環している
■愛はなぜ終わるのか
ヒヒやチンパンジー、ゴリラなどニンゲンに近い動物の性行動の観察から、パートナーを固定しての性行動というのはその方が自分の遺伝子を後代に残すという意味合いから雌雄双方にとってメリットがあるからで、本来的には成した子供が独り立ちできるようになるまでの一時的なものである。そしてパートナーを換えずに次の子供を作るというのは、生き残りに有利な遺伝的多様性の追求という意味合いから言えば不合理な戦略である。つまり子育てが終わったら離婚して別の相手を探す方が自然だという。
それが現在のような恒久的パートナーシップに変化して来たのは偏に農耕という生産手段のためである。農耕に携わる男女は土地という不可分な経済基盤に依存しているので、妻あるいは夫が分かれてよその土地に流れて行くということができない。現存する狩猟民族の調査結果をみても、定住農耕民に較べて著しく離婚率が高い。 そして、現在先進国と言われる国々で離婚率が高くなっているのは、産業基盤が農耕から工業へ、工業から第三次産業へと移行するに従い個々人の「財産」が再び分割可能なものになって来たからであり、とりもなおさずそれは「農耕でゆがめられてきたニンゲンのセックスが生物として正常な形態を取り戻しつつある現れ」である。
「愛はなぜ終わるのか/ヘレン・E・フィッシャー著」
■セックスレス
「セックスレスな男たち/家田荘子著」より。
最近セックスレスが何かと話題になっている。動物学的に見ても、人間ほど、発情期がながい(一生?)動物は数少なくて、人間以外の人間と同じような発情期のパターンをもつ動物はセックスを繁殖以外に何に使用しているかというと、自分以外の個体とのコミュニケーションらしい。 それが、身体だけのコミュニケーションになると、必然的に一個体だけが相手だと、飽きる。つまり、身体的なセックス、つまり技術としてのセックスだけの単層的なセックスだと飽きる。そこがセックスレスの根本的な原因ではないか?と。
結婚したら家族みたいになった、肉親みたい、近親相姦みたいで抱けない、というのは体の良い言い訳で、つまるところ、相手に飽きてしまうのだ。
■性愛
性愛から見た恋愛のメカニズム
ヒトを含む3種のサルだけが性行動を社会関係の調整に転用する。3種のサルの「性行動の転用」を対比すると、ヒトの性愛の特質が「和解の性」「支配の性」の混用にある。
「和解の性」の特徴点は、相手の愛情の独占を図らないことである。自分が相手を好きというだけ。しかし、数ヶ月経過しこの間にそれぞれの自己形成が進むと、「和解の性」が終わり「支配の性」が訪れる。(訪れないこともままある。)
上手に自己形成ができた場合、相手を排他的に愛する自分が形成され、相手の愛情を排他的に独占しようとする自分が形成される。めでたいことに、相互にこのような自己形成ができあがると、「支配の性」といわれる関係に入り、性愛は(生殖目的ではなく)愛していることの証として要求されるようになる。
こうして、生殖目的でないのに頻繁に性愛関係を持つ人類特有の「夫婦」ができあがり、長い期間にわたり、強固に愛し合う(最優先扱いする)ようになる。
このような「支配の性」が成立しなかったとき、つまり、自己形成に失敗し、相手の愛情は独占したいが相手には独占的な愛情を注いでいないというとき、性的な絶頂感が起こりにくくなる。
■色情狂
「色情狂=(ニンフォマニア)」の場合、男に抱かれる、快感が発生する、その快感が日を追うごとに切れてくる、切れてくると次の男が欲しくなる、また快感が発生する、この繰り返し。ところが、これは正常な姿であって、もし快感が発生しなかったら、ドーパミンの分泌が異常に少なかったら、あるいは、ドーパミンは発生されたらどんどん分解されて行くが、その分解する酵素がやけに強かったら、せっかく発生した快感がすぐに切れてしまって、今度は不快感の方がたちまち優越してしまう。そうすると、不快を避けるために男が必要になる。だから、普通の女だったら3日に1回とか、1週間に1回とか、そんな頻度でいいのが1度抱かれて終わればすぐ次が欲しくなるという、そういう状況になる。これが「色情狂」のメカニズム。これを直そうと思ったら、ドーパミンがたくさん出るようにしてやる必要があるのだ。
ドーパミンをたくさん出す方法
スポーツをしたり、音楽を聴いたり、歌ったり、絵を描いたり、物を創ったり、
とにかくどんどん新しいことにチャレンジする事。最初はおっくうに思っても、
ドーパミンが増えてくるので、楽しくなってくるはず。
また、ドーパミンが多く分泌されると、積極的で明るくなり、
さらにやる気が出てくる。これは「行動をおこさせる」ホルモンだから。
イヤイヤ掃除を始めたら、そのうちにやる気が出てきて、もう隅々までピカピカ
にしないときがすまなくなってしまう・・・というようなことがあるけど、
これもドーパミンが放出されるからである。
■刹那的快楽
快楽はたいがいにして刹那的だ。逆を言うと、その瞬間だけが快楽なのである。
人はその快楽を求めて生きて(働いて)いるのだけど、その快楽が刹那であると意識しているから、それほど執着しなくなってくる。すぐに忘れてしまう程度の快楽も多くなる。こうした理屈や感覚が積み上げられて、結局空虚さだけが残される。
そして恋愛とか、積極的に生きるということに価値を見いだせなくなってしまう。
■執着恋愛
執着恋愛タイプの人は、さみしさを紛らわすためだけに人とつきあうことがとても多いのが特徴です。友人関係でも恋愛関係でもそうです。本当に好きな人ではなく、さみしさから本当は好きでもない人ともつき合ってしまうのです。でも、そうして選んだ人と いうのは、好きでないだけでなく、相手もさみしい人がほとんどです。さみしい人同士ではいくら集まってもさみしさは埋められません。愛情を出すことができないからです。
さみしさに負けて、今までのつき合いでその場を紛らわしてしまうと、またもとの契約関係だけの人間関係に逆戻りです。傷をなめ合う関係はとても甘美ですが、再び辛い嫉妬・不安・不信感・猜疑心にまみれた世界へもどるだけです。世の中、探せば、けっこう無条件の愛があるものです。あなたが『そんなものあるわけがない』と思っているから見つからないのです。信じれば愛が見えるのです。
本当は1+1が2以上になる恋愛が理想なんだろうけど・・・
0.5とかマイナスになる恋愛には、きっとこのような理由があるのだろう。
■思い残し症候群
不倫をしたり、経済的に困っていないのにテレクラや援助交際に走る。拒食、過食から登校拒否、ひきこもり・・・。今の若者たちの行動の根幹を探っていくと、「思い残し症候群」で説明がつくケースが多いという。たとえばテレクラや援助交際が廃れないのは、家庭に父なるものや母なるものがないことが原因のひとつといわれている。昔から問題ある家庭には「男と女と子どもしかいない」といわれ、父と母の存在が欠如してしまっているのだ。父は娘からの尊敬を、娘は理想の父を、そして息子は聖母マリアを求めてさまよってしまうというのだ。
父親は家庭を放棄し、リストラの陰におびえながら仕事にしがみつく。母親も子育てが一段落すると働きに出る。子供たちは学校週休二日制によって余暇をもてあましてしまう。そんな核家族の環境で育った子供たちが大人になり、両親が高齢化してくると「面倒をみるヒマがない」と言って老人ホームに押しつけてしまうのだ。「お金が神様」の現代日本では彼らは厄介者として扱われてしまうのだ。儒教の国、韓国ではお年寄りは尊敬すべき存在として大切に扱われている。今の日本では圧倒的に愛が不足してしまっているのだ。
■家族をする家
昔は農家や商人とかで職住近接で、家族みんなで手伝って一つにまとまってたけど、現代は夫婦がそれぞれ外で働き、食や子育てまで外に流れていって、家族の団欒がなくなって結果的に、形骸化した家族像だけが残っている・・・。
広いリビング、大きな吹き抜け、アイランドキッチン等、家も自分たち家族の等身大な暮らしから発想しないで、雰囲気で建ててしまう。そこに何があるかといえば、幻想とか、夢とかイメージしかない。
家に家族の団欒、結束を求めるのはキケンであり、家族のあり方を見つめ直すほうが先決である・・・(家族をする家/藤原智美著)
■労働の価値観
宮脇檀著「男と女の家」より。宮脇氏によると、労働の価値観について欧米人はカトリシズムの考えかたで「労働は神から与えられた罰である。」(奴隷制度を思い浮かべれば分かりやすい。)という認識があり残業をしないが、日本人は農耕民族であることと儒教の影響で「労働は学習であり、よく働く人は偉い。」という意識があるので夜遅くまで熱心に働くのだとのこと。「男は家に通勤し、会社へ帰る。」という言葉が印象的だった。
■家と家族
宮脇檀著「男と女の家」のつづき。戦前は家のルールは男が決めていて絶対であり、家族はひとつにまとまっていたのだが、今は男が会社の仕事に徹し、家作り(家庭作り)を放棄してしまった結果、家が女性化してしまった。具体的には、部屋に置く小物や装飾のほとんどは、家にいる母親が決定しており、家に帰らない父親の居場所は無くなってしまった。熟年離婚や家族崩壊がとりだたされている今、家と家族について考えさせらる内容だった。
面白い話をもう一つ。家庭の象徴である「ちゃぶ台」の歴史は意外に浅く、明治24年に発明されて特許を取得したものだという。ちゃぶ台を囲んで家族でご飯を食べるという習慣は、それまで日本には無く、明治時代以降に政府が、国政として「家族」を一般庶民に根付かせるための法律や制度をどんどん作り、権力を強化していった。それと平行してちゃぶ台が爆発的に普及していったのだ。
■信じること
好きすぎてこわかった
ちいさなことも不安だった
信じるなんてできなかった
好きだけじゃだめだった
好きだけじゃだめなんだ
『好きだけじゃだめなんだ/DREAMSCOMETRUE』
いろんな経験をしてあらためて実感した。
好きなだけじゃだめなんだ。
心のどこかでは
やっぱり信じていない自分がいたんだ。
相手のことも、そして2人のことも・・・
愛することは信じること。
確かにそうだと本当に思う。
■コスモス
薄紅の秋桜が秋の日の
何気ない陽溜まりに揺れている
こんな小春日和の穏やかな日は
貴方の優しさが浸みてくる
明日嫁ぐ私に苦労はしても
笑い話に時が変えるよ心配いらないと笑った
(山口百恵/「秋桜」より)
秋桜(コスモス)は日本の在来種ではない花。
風に吹かれて折れそうなほど、可憐なのに、
日本の景色に溶け込み力強く咲き誇っている。
この曲でも、生まれ育った土地を離れて、新たな土地に嫁いでも、
力強く生きて欲しいという思いが込められてる(と思う。)
■愛と幻と
――疲れ果てた あなた わたしの 幻を愛したの・・・
『オリビアを聴きながら/杏里』より
この歌詞の意は、
「あなたは、自分の理想(幻)を重ねて見ていた。
本当のわたしの事も知らずに。」
なのか?
「幻を演じて見せる彼女が、もう疲れ果ててしまった。」
のだろうか?
■子猫
胸の中に抱いていた子猫が
僕の腕からするりと抜けだし
暗闇の中へ消えていった
気まぐれなのは知っていたけど
それでも悲しいときは悲しい
けれども一番悲しかったのは
もう一度その愛しい子猫を
抱き上げようとはしないで
寂しさで胸を膨らませていた
僕自身 だった
■天国と地獄
地獄では皆、長い長い箸を使って御飯を食べなければならない。
箸が長過ぎるために、目の前にある御馳走を口に運ぶ事が出来ない。
目の前にあるのに食べれない、まさに地獄。
一方、天国では、同じ長い長い箸なのに、皆がニコニコ御馳走を食べている。
それは何故か?皆がお互いに食べさせてあげているから。
考え方ひとつで、天国にも地獄にもなるのだ。
行き詰まったら、考え方を変えてみよう。
■少欲知足
「食欲・性欲・金銭欲・・・
これらの欲望を多く求めるために苦痛になってしまう。
自分にちょうどいいものを求めた時に、それは苦痛ではなく、
生きる糧となる。足ることを知るということが大切である。」
「少欲知足」七百五十年前の道元禅師のことばです。
■鏡
人は鏡を見てはいない。見ているのは、鏡の中に映る世界だ。
鏡そのものは、誰も見ようとしないし、見ることができない。
人は他人と会っているとき、他人を見ているようで、
実際には見ていない。
見ているのは、他人が見ている自分の姿だ。
恋愛も結局、自分自身と向き合うことなのかもしれない。
■苦楽
苦しみと楽しみとは、必ず一緒に存在している。
誰もその二つを分けることはできない。
楽しみと苦しみは、お互いにもう一方に依存している。
あなたがどこを探しても、幸福のみを見いだすことはできないのだ。
